Theobroma



その表情はひどく苦しそうに見えた。
だけれども、逆に、大層官能的でもあった。


扉には鍵がかかっていない。
入室しても問題ないと踏んで、成歩堂は声もかけずに執務室に侵入した。

いつもと違う、と思ったのは室内の薄暗さ。
正面の椅子には誰も座っていない。
ボルドーのスーツの上衣が椅子にかかっている。



求める人物は、ソファに寝そべっていた。





成歩堂は足音を忍ばせて、御剣の様子を伺う。
起き上がる気配はない。
御剣は眠っているようだった。


息までひそめて、御剣の顔を覗き込む。

成歩堂が御剣の寝顔を見るのは初めてだった。
眠っているときも、眉間に皺が入っていて、少しだけ笑ってしまう。
気配を感じたのか、御剣が身じろいだ。
だが、覚醒することはなかった。


長い睫だなぁと成歩堂はそんな感想を抱く。
ソファの前の床に座り込んで、本格的に御剣の観察をはじめた。

目が覚めたらびっくりするかな、怒るかな、と子供のようにどきどきしながら、そっと御剣を眺める。


白い肌、薄く結ばれた唇、少しだけ乱れた髪。
その髪を梳いてみたい、と手を伸ばしたが、御剣を起こしてしまいそうで成歩堂は躊躇った。


「ん・・・」

御剣の吐息が漏れる。
聞いたことのない、その甘い響きは成歩堂に衝撃を与えるのに充分だった。

夢に魘されているのか、御剣は呼吸をはやめる。
はあ、と深い息が吐かれ、苦しげに眉が寄せられる。


「御剣」


大声で驚かせるのも悪いと思い、控えめに声をかける。
だが、御剣は目覚めなかった。
白い手を握り締め、頭を振る。

動いた弾みに、緩まっていたフリルタイがはらりと、広がる。
白い喉元が露になり、成歩堂はあまりの白さに息を呑む。

声を出そうとしてか、喉が動くさまが扇情的に見えた。


「ッあ・・・」


身体をびくっと痙攣させ、御剣は細い声をあげる。


「?」


白い喉元に赤い痣が見えた。
僅かにかかっているタイを指先でつまむようにしてそっと外す。

色素の薄い肌に浮かぶ、目立つ痣は、元々あるものか、成歩堂の想像するものか、はかりかねた。

さらに慎重な手つきで磨かれた釦を外していく。
現れた肌はやはり白くて、思わず手を触れたくなるような艶やかさを持っていた。

何箇所か、同じような痕を見つけた。
成歩堂は湧き上がる唾液を飲み込み、震える指先で、その痣に触れた。

御剣の身体が震えた。

今度こそ目覚めるかと、成歩堂はその瞬間を待った。

「ッ・ぁ・・ぅ・・・」

一瞬、自分の名を呼ばれたのかと思った。
だが、御剣の瞳は閉じたまま。
寝たふりをしているとも思えない、苦渋の表情のまま。


「御剣」


血が通わなくなるんじゃないかと思ったくらい強く握られた手を両手で包み込み、耳元で囁く。


「御剣」


驚くべきことに次第に、荒かった御剣の呼吸がおさまってきた。

苦痛の色が薄れ、御剣の表情は穏やかになった。

成歩堂はその額に、思わず唇で触れる。

御剣が目覚めないのをいいことに、何度か唇をおしあてた。
頬に、瞼に、そして、唇に。



「なるほどう・・・」


今度こそ起きた、と成歩堂の動きがかたまるが、すぅすぅと穏やかな寝息が聞こえるだけ。


「おやすみ、御剣。またあとで来るよ」



成歩堂は来たときよりも、そうっと足音を忍ばせて、執務室をあとにした。










「御剣」

「何の用か?」

数時間後に訪れたら、御剣はいつものびしっとした御剣だった。
僅かな隙もない完璧な検事。

「今日はもう帰ろうね」

「何?」

「きみ、疲れてるよ。さっききたとき、寝てたでしょ」


御剣は眉間に皺を寄せた。
だが、その表情は少し恥ずかしそうでもあった。


「まぁ・・・そうかも・・・知れない」


「ぼくが入ったことに気づかないくらいだから、絶対疲れてるよ。一緒に帰ろう?」

「・・・そうだな・・・そういえば、夢にきみが出てきたような気がする」


きみがきたことを感じ取ったのだろうか、と屈託なく御剣は笑った。


「・・・そうだね」


成歩堂は御剣の帰り支度を急かせながら、他愛ない話をする。
御剣はそれに、頷きながら相槌を打つ。



「今日は、きみが絶対に眠るようにぼくが見張るから」

「何?」

「書類も鞄にいれただろ?で、きみの家がいい?ぼくの家がいい?」


「・・・必ず眠るから」


「駄目。どっち?」


友人の家に気軽に宿泊したり、またされたりするような人間関係を持っていない御剣は困惑する。
突っぱねようと思えば出来るが、成歩堂の表情がやたらと無表情なのが気になった。


「何も用意していない・・・私の家に来てもらおうか」


「きまり」


成歩堂がいつもの、笑みを浮かべる。
御剣はどうしてだかほっとした。






「計画失敗・・・」
成歩堂は苦笑いを浮かべるしかなかった。
御剣を抱いて、恋人にしてしまって、よくない習慣というか行い、取引なのだろうか-そういうのを正そうと思っていた。
けれど、御剣ときたら、成歩堂と同じ部屋で寝るのは初めてなのにも関わらず、呆気ないほど無防備に眠り込んでしまった。

成歩堂が

「一緒に寝ていい?」

と言ってベッドに潜り込んだことも気にせず、抱き込んでも、成歩堂を突き放そうとはしなかった。

それどころか、この世で一番信頼している、と言わんばかりの無邪気さで身を預けて、一瞬もたたぬうちに身体を弛緩させてしまった。

「可愛い寝顔」

安心しているのか、眉間に皺がはいっていることもなく、苦しそうな表情もない。
御剣にしてはひどく珍しい穏やかな表情。
こうやってみると、綺麗な顔立ち、というだけでなく、可愛いもんだな、と成歩堂は思う。

しなやかな身体を抱き締めて、成歩堂も目を閉じる。
明日になったら御剣に告白して、ぼくだけのものにならない?って言おう、と決めた。